2024 .11.21
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本日は終戦記念日。自分は「戦争を知らない子供たち」である団塊のさらにJr.世代であるが、戦争と音楽に関する子供の頃の体験を一つ思い出したので、綴ってみようと思う。
小学生の頃、学校に定年間際の男性の音楽教師(以下、T先生)がいた。当時(1980年代半ば)で50代という事は、おそらく10代の時期に大戦を体験した世代だと思う。うちの小学校には5,6年生全員で構成される「鼓笛隊」があり、T先生はその指導にあたっておられた。指導はかなり厳しかったので、児童の間ではその先生を揶揄する歌がこっそり流行るような、今では少ないかもしれないタイプの「恐い先生」だったと記憶している。
ある日の音楽の授業、その日の題材はお馴染みの童謡「赤とんぼ」だった。
小学生の頃、学校に定年間際の男性の音楽教師(以下、T先生)がいた。当時(1980年代半ば)で50代という事は、おそらく10代の時期に大戦を体験した世代だと思う。うちの小学校には5,6年生全員で構成される「鼓笛隊」があり、T先生はその指導にあたっておられた。指導はかなり厳しかったので、児童の間ではその先生を揶揄する歌がこっそり流行るような、今では少ないかもしれないタイプの「恐い先生」だったと記憶している。
ある日の音楽の授業、その日の題材はお馴染みの童謡「赤とんぼ」だった。
T先生は、お馴染みのこの歌詞について
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十五でねえやは嫁に行き
お里の便りも絶え果てた
「赤とんぼ」作詞:三木露風 作曲:山田耕筰 3番より引用
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「“じゅうご”というのは、本当は“ふるさと”という意味があるんだ」とポツリと話された。正直当時の私はさっぱり意味がわからず、違和感だけを長らく記憶していた。
年月は過ぎ、既に社会人となった後。あの時の「じゅうご」というのが「銃後」、つまり戦地・前線に対する故郷・母国の事か!と気づいた。
再び故郷に帰れるかもわからず、戦地に赴いている兵士。ねえや(実の姉ではなく、幼少児に子守をしていた女性)から時折手紙が来ていたが、嫁いで行ったのを境にその便りも無くなった。平和の中でぬくぬくと育った自分にその心情を正確に想像するのは無理かもしれない。しかし、それでもなお、胸の中に大きく穴が開いたような、単なる寂しさとも郷愁とも哀しみとも付かない感覚に覆われた。
この「銃後」解釈についてネットで検索してみた所、同様の解釈はある程度は流布しているものである事がわかった。中には、三木露風がこの詞を書いたのは1921年(大正10年)と大戦前なので正しくない、と分析しているサイトもあった(日清・日露戦争の可能性もあるが)。実際、後付で第三者が考えた解釈である可能性は大きいだろう。
しかし、個人的な思いとして、執筆時の意図と比べて「正しい・正しくない」はあまり重要では無いのでは?とも考えてしまう。実際、戦地でこの解釈が広まり兵士達の胸を震わせていたかもしれないし、ずっと後の世代である私の心にも、少なからぬ揺さぶりをもたらした。
歌詞に限らず創作物というのは、作った時点が完成ではない。受け手とコネクトした時初めて生命が宿るものだと考えている。それが、作者の意図とは必ずしも一致しないかもしれないし、それは作り手にとって時には「不幸」であるかもしれない。だが、そんな「宿命」を背負ってしまうのも、本当に優れた、力ある作品であるがゆえの事とも思うのだ。
T先生が、この解釈を授業でつぶやいたのにはどんな思いがあったのか。それを想像したものを文章にしようとしても、どうしてもニュアンスが異なってしまう。それを心にダイレクトに伝えられるのが「歌」というものの力なのだろうか。
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十五でねえやは嫁に行き
お里の便りも絶え果てた
「赤とんぼ」作詞:三木露風 作曲:山田耕筰 3番より引用
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「“じゅうご”というのは、本当は“ふるさと”という意味があるんだ」とポツリと話された。正直当時の私はさっぱり意味がわからず、違和感だけを長らく記憶していた。
年月は過ぎ、既に社会人となった後。あの時の「じゅうご」というのが「銃後」、つまり戦地・前線に対する故郷・母国の事か!と気づいた。
再び故郷に帰れるかもわからず、戦地に赴いている兵士。ねえや(実の姉ではなく、幼少児に子守をしていた女性)から時折手紙が来ていたが、嫁いで行ったのを境にその便りも無くなった。平和の中でぬくぬくと育った自分にその心情を正確に想像するのは無理かもしれない。しかし、それでもなお、胸の中に大きく穴が開いたような、単なる寂しさとも郷愁とも哀しみとも付かない感覚に覆われた。
この「銃後」解釈についてネットで検索してみた所、同様の解釈はある程度は流布しているものである事がわかった。中には、三木露風がこの詞を書いたのは1921年(大正10年)と大戦前なので正しくない、と分析しているサイトもあった(日清・日露戦争の可能性もあるが)。実際、後付で第三者が考えた解釈である可能性は大きいだろう。
しかし、個人的な思いとして、執筆時の意図と比べて「正しい・正しくない」はあまり重要では無いのでは?とも考えてしまう。実際、戦地でこの解釈が広まり兵士達の胸を震わせていたかもしれないし、ずっと後の世代である私の心にも、少なからぬ揺さぶりをもたらした。
歌詞に限らず創作物というのは、作った時点が完成ではない。受け手とコネクトした時初めて生命が宿るものだと考えている。それが、作者の意図とは必ずしも一致しないかもしれないし、それは作り手にとって時には「不幸」であるかもしれない。だが、そんな「宿命」を背負ってしまうのも、本当に優れた、力ある作品であるがゆえの事とも思うのだ。
T先生が、この解釈を授業でつぶやいたのにはどんな思いがあったのか。それを想像したものを文章にしようとしても、どうしてもニュアンスが異なってしまう。それを心にダイレクトに伝えられるのが「歌」というものの力なのだろうか。
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